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オオカミなんか怖くない──千野栄一『外国語上達法』 

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)
(1986/01/20)
千野 栄一

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ユーモアで制する語学学習の旅

 これまで、数多くの外国語入門書が書かれ、読まれてきました。すぐれた書物もたくさんあります。にもかかわらず、いまだに多くの日本人が、植えつけられた外国語習得への苦手意識を克服できずにいます。

 本書は、「私は語学が苦手である」という言葉から始まるように、あくまでもそうした「外国語コンプレックス」に悩む人々の視点に立って語られています。著者は、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』の翻訳者としておなじみの千野栄一。初版は1986年ですが、今でも版を重ねる語学入門書の名著です。

 誤解を恐れずにいえば、本書には「当たり前」のことしか書かれていません。

 いや、決して馬鹿にしているわけではありません。その「当たり前」のことがいかに大事な問題であるのかを、ロシア語やグルジア語といった言語の例も用いながら、著者は非常に的確に突いています。

 そもそも、語学の習得や上達に必要なことは、たいていわかりきっているものです。わからないことが問題なのではなく、それが「できない」ことが問題なのです。

 本書がよくある語学入門書と一線を画しているのは、語学学習に必要なコツを正確に押さえながら、初学者が陥る罠をきちんと指摘し、何より読者に「語学をマスターしたい」と思わせる「快感」がともなっていることです。

 もっとも好感が持てるのは、例えば「語学にはどうしても才能の差というものがある」と断言しているように、語学に苦しんできた人々が本当に知りたいことを、それが目を背けたくなるような事実かどうかもかまわず、平然と書き切っている点です。いくつもの言語をまるで母国語のように扱える人もいれば、またそうでない人もいる。それを「才能の差」と言下に断言してしまう切れ味には、「語学には才能なんて必要ありません」といったステレオタイプの入門書につきまとう嘘臭さに対して、真実に接する爽快感があります。

 さて、外国語の上達には、何が必要なのでしょうか。

 本書は述べています。上達に必要なのは「お金」と「時間」であること。覚えなければならないことは二つ、語彙と文法であること。外国語を学ぶためには、良い教科書、良い教師、良い辞書の三つが望ましいこと。まず頻度の高い単語から千語を覚えること。初学者の語学書は薄くなければならないこと。

 どれもこれも、どこかで見覚えのあるような、当たり前の文句ばかりのようにも見えます。

 本書の中身を一言であらわしてしまえば、「急がばまわれ」ということなのですが、当たり前のことを当たり前のようにこなすことは、自分に厳しくできるような自律した人間ならばともかく、怠け癖のある、それこそぼくのような人間にとっては、なかなか難しい問題です。

 しかし、本書は、そのような優秀な人間を、読者として想定していません。

 つまり、本書の醍醐味とは、説得力のある根拠(学習の本質)を読者に明確に示すことによって、その当たり前のことがどれだけ重要であるのかという事実を、ふたたび読者に納得させるところにあります。これまで外国語の習得に何度も失敗してきた人にとって、なぜこれまで挫折をくりかえしてきたのか、その本質を本書に学ぶことによって、大いに励みになるわけです。

 例えば、「語彙」の章から引用してみましょう。

語彙の習得がうまくいかない理由は、この語彙の習得が面白くないことと、語の数が多く学習に一見終りがないように見えること、どのような語彙を選択するかの自覚がないことに起因している。単語の数を増やしていく作業は、決して面白くない。単語の数が自然に増え、しかも、それに喜びが伴うようになるのはたいぶ先のことである。ここでいま問題にしていることとはレベルが違う。単語を覚えるという作業は単純であり、ゴールがなく、面白くない。それにもかかわらず、単語を覚えなくては外国語の習得に支障をきたす。この矛盾を解決しなければならないのが外国語の学習である。(本書p49)


 本質を的確に突いた、シンプルでうまい表現です。

 言語を人間に喩えた場合、文法とは骨や神経であり、語彙とは血や肉である、と著者は言います。これもよくある陳腐な表現でしょう。しかし、著者の表現を借りていえば、「日本中を骸骨が歩きまわっている」ことになります。つまり、日本の外国語教育は、概して文法偏重であり、言語にとってこれほど大切な語彙・単語がないがしろにされているということです。

 また、「文法」の章のくだりでは、名詞に格変化があることを理解できていないロシア語通訳者の失敗のエピソードなどを挙げながら、文法の重要性について述べられていると同時に、あくまで文法は補助手段であり、初学者にとっては、それ自体が学習の目的ではないことをよく理解しておく必要があることも、きちんと指摘されています。

 どのような語学書を選ぶべきかというくだりでも、著者の表現は一貫してシンプルで含蓄があります。

初歩の語学の教科書なり自習書は、薄くなければならない。語学習得のためには、ああこれだけ済んだ、ここまで分かった、一つ山を越えたということを絶えず確認して、次のエネルギーを呼びさますことが必要である。飛び立った飛行機にとって、次の給油地があまりに遠いために墜落するといったへまは許されず、いつも余裕を持って次の中継地に着かなければならないが、それと同じようにして、次のエネルギーを得ることが必要なのである。(本書p95)


 また、初学者の視点に立った見方だけではなく、執筆者側の考えも反映されていて、興味深いものがあります。

語学書が理論的にどのように完璧にできていても、面白くなければ終りである。(中略)まずテキストが面白いことが肝要である。語学の教科書の例文が一般の会話の中にでてくるような面白いものであれば最上である。面白い語学書を書くというのは、語学を教える立場にいる人の夢である。(本書p102)


 あるいは、語学を専門にしている人にとっても、どのような人間像が語学教師にふさわしいかについて述べた、「教師」の章に学ぶ部分は少なからずあるでしょう。次の言葉は、教師と学生、どちらにとっても重要な問題です。

語学教師にとっての第一の資格は、まずその外国語をよく知っていることである。教師の外国語の実力に対する学生、受講者の信頼は、授業が成功するための必要条件である。従って教師の実力に受講者が疑いを抱いたらその授業はうまくいかず、受講者がその外国語の習得に失敗するパーセンテージは高くなる。(本書p121)


 ぼくが個人的にもっとも楽しんで読んだのが、「発音」の章です。著者のユーモアがもっとも発揮された章であり、[r]と[l]の発音が苦手な日本人の代わりに、欧米人が発音で悩まされるエピソードを引用して、勝手に仇をとってくるところなどは、思わず笑みがこぼれます。

 さらに、「会話」の章にある「ダグラス・ラミス氏の体験」というくだりは、語学学習者にとって必読に値するところでしょう。外人を見れば、それが外人であるというだけの理由で、安易に話しかけたがる人がよくいます。外国語を使った会話というのは、あくまで一人の人間と一人の人間同士の対話であるという前提を忘れてはならないことを、あらためて反省させられるエピソードです。

 最後に著者は言います。

役立たせる目的がなく、外国語を学ぶことを目的にしている人は悲劇である。(本書p204)


 この断言は、シンプルかつ本質的な卓見です。語学入門書を読んだにもかかわらず、それを実行に移さないのでは、本書を読んだ意味など、まったくないということになりましょう。

 さいわい、本書にはそれをうながす力があるようです。

 それは、この名翻訳者が、語学学習においてその情熱を維持することが何よりも難しいことを深く理解しており、その克服を第一の目的として執筆しているからにほかなりません。そういった語学に対する苦悩が、名訳『存在の耐えられない軽さ』を支えているのです。


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カテゴリ: 書評

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天使が飛ぶ理由──ガルシア=マルケス『大きな翼のある、ひどく年取った男』 

族長の秋 他6篇族長の秋 他6篇
(2007/04)
ガブリエル ガルシア=マルケス

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なぜマルケスの天使は飛び立ったのか

 なぜこの短編だけをとりあげるのかについて、いささか注釈が必要かもしれない。もっとも、理由はしごく単純である。『大佐に手紙は来ない』や『十二の遍歴の物語』をはじめ、数多ある彼の傑作短編において、この短編ほど創作に対する作家の姿勢を如実にあらわしたものはないと考えられるからだ。

 だが、その根拠を示す前に、簡単に物語の流れを確認しておこう。

 雨が降り出した三日目、海辺に住んでいる夫婦のペラーヨとエリセンダは、庭の奥のぬかるみで、大きな翼を持った男が呻いているのを発見する。翼という不可解なものは無視して、とりあえず外国船の唯一の生存者だろうと二人は結論づけるが、隣家の物知りの女に確認してみると、どうやら本物の天使だという。

 その一大ニュースは、翌日には町中に知れ渡ってしまう。天使を見た神父は、そのあまりの人間らしさにうさん臭さを抱き、無知から生ずる危険について野次馬に説教するが、誰も聞く耳を持たない。ニュースを聞きつけ、遠い土地から見物人や奇跡を求める重病患者が続々と訪れたので、夫婦はその見料によって、大きな財産をこしらえる。

 しかし、やがて人々は興味を失っていき、数年後、鶏小屋で飼われている不気味な天使の存在は、少なくとも妻エリセンダにとっては、日常生活の重荷になっている。ある朝、エリセンダがタマネギを刻んでいるとき、沖のほうから吹く風に気づいて窓の外を見ると、死にかけた冬を乗り越えた天使が、ぶざまな動きで飛ぶための練習をしている場面に遭遇する。しばらく見っともない羽ばたきをしていたが、とうとう天使は飛び立つことに成功する。エリセンダは見えなくなるまで、ずっとその姿を見つづけるのだった。

 庭に墜落した天使らしき男が、やがて回復し、ふたたび飛び去るまでの短いストーリーだ。異様な光景が印象的な物語である。

 ところで、個人的なことを書かせてもらえば、初めてこの短編を読んだとき、正直のところ、ほとんど何の感動も覚えなかったことを告白しておきたい。マルケスみずから言及しているように、『族長の秋』の習作ぐらいにしか思えなかったからである。

 ところが、二度目に通読したとき、見事に仰天してしまった。それはこの物語のラストのたった一文から、物語を紡ぎあげるうえで、いかに現実と向き合わなければならないのかという、マルケスのリアリズムの基準が、はっきりと見出せたからである。

 実際のラストシーンは、このように描かれている。

しかし、ついに天使は飛び立った。エリセンダは自分のために、そして天使のために、ほっと安堵の吐息をついた。老いぼれた禿鷹のようなはらはらする羽ばたきではあったが、なんとか体を支えながら、場末の家々を越えて飛んでいく天使の姿が見えた。タマネギを刻み終えるまで、エリセンダは天使を見つづけた。見ることがもはや不可能になるまで、見つづけた。なぜなら、そのときの天使はもはや彼女の日常生活の障害ではなくなり、水平線の彼方の想像の一点でしかなかったからである。


 ぼくの解釈によれば、この物語で中心的に描かれているのは、未知の現実に対する、共同体における群衆の反応である。天使のイメージとはまるで程遠い、いかにも人間そのものである天使の登場は、その反応を引き出すためのきっかけにほかならない。

 では、なぜエリセンダは、天使が飛び立ったことに安堵を抱いていたのだろうか。

 その理由の部分に該当するのが、まさしく本テクストのラストの一文にほかならない。

 すなわち、この安堵の正体は、「想像の一点」として再び処理できることへの安堵なのだ。もっと具体的にいえば、天使の存在を観念として認めると同時に、それが実際に目に見えるもの、手で触れられるものとして目の前に存在してもらっては困るということである。

 ここに描かれているのは、まさしく未知に対する群衆の現実的な反応である。天使という存在が、あくまで人間の想像力(観念)によって生かされているものであることは疑いない。にもかかわらず、手で触れたり、鶏小屋に閉じこめたりできる存在としての「天使」が、実際に庭に墜落してしまったのだ。

 これは長い目で見るかぎり、共同体にとって、とうてい受け入れられることではない。なぜなら、人間の想像力が生かされるためには、生物学的な天使の存在が不要であるばかりか、その存在の事実の具体性が、結果的に想像力そのものを否定してしまうことになるからだ。

 そもそも、科学的に証明しうる天使など、天使とさえ呼べないはずである。また、この小説に描かれているように、いくら野次馬の好奇心を一時的に刺激したところで、やがて興味さえ持たれぬ存在にならざるをえなくなる。科学的に証明しうる天使とは、天使の条件を逸脱した、いわば既知の存在なのであり、あくまで天使とは、少なくとも共同体にとっては、手で触れられないもの、すなわち未知のものとして存在してもらわなければならない。

 さらにわかりやすく言えば、このテクストにおいて、天使という言葉は、そのまま想像力という言葉に置きかえてもかまわないだろう。「日常生活の障害」とは、まさに想像力が、庭という物理的な次元に墜落してしまった状態のことなのだ。むろん、意地でも飛んでもらわなければならない。

 そこで、実際に手で触れられる存在として登場してもらっては困る天使が、エリセンダの前から消え失せることによって、ふたたび天使としての本来の地位、すなわち「想像の一点」としての資格をとり戻すことができたというわけである。

 ここで気をつけなければならないのは、冒頭において、語り手がこの天使の存在を、「男」「人間」「老人」と呼んでいる点である。その呼び方が初めて「天使」に切り変わるのが、生死に関することなら何でも心得ているとされる、隣家の女が指摘したときであることに注目したい。

 つまり、これは語り手の視点が、あくまで共同体のそれに依存していることを示している。言いかえれば、作品を成立させるリアリズムの基準と文体が、その神秘主義的な共同体意識に置かれているということでもある。

 マジック・リアリズムという杓子定規で語られることの多いマルケスだが、以上の考察からもわかるように、徹頭徹尾、この作品が現実的な即物性によって貫かれている事実を、あらためて確認しておかなければならない。

 確かに、天使を飛び立たせるのは容易なことだ。「天使が飛んでいた」と書けばいいのだから。しかし、並の作家であった場合、その天使はすぐに墜落してしまうだろう。読者という太陽の厳しい熱によって、すぐにその羽が焼きつくされるからだ。

 それでは、なぜマルケスの天使は飛び立ちえたのか。

 もしも現代人たる読者が、今では一般的となった科学的証明という審問手段を過剰信仰しており、文学作品をその俎上に並べなければ気がすまないのであれば、次のような反論を用意しておこう。

 すなわち、野家啓一氏の表現を借りるならば、現代の物理学者が、霧箱の飛跡を通じて素粒子の存在を経験的に確認するのとまったく同じように、古代ギリシア人たちもまた、雷鳴や海の凪といった現象を通じて、ゼウスの怒りやネプチューンの平静を経験的に確認しえたはずだ、ということである。

 安部公房が自身のマルケス論で指摘しているように、いくら非現実的な出来事が描かれているように見えようと、あくまで物質の現象として描かれていることに注意しなければならない。

 まさにマルケスは、「天使の創作者」の子孫としての自覚を、この短編で見事に描いてみせた。そうでなければ、並の作家のように、そのまま醜い天使をくたばらせてしまったにちがいない。

 それまでの未知が墜落し、やがて共同体における完全な既知に引きずり降ろされたとき、ズタズタに解剖された天使という言葉は、その本来の役割とともに消滅するだろう。この未知から既知へと至る過程につきまとう残酷さは、本来の天使の地位をふたたび見出したエリセンダの視点によって、さらに凄絶さを帯びてくる。

 人間があらゆる錯覚や誤解の権利、すなわち想像力の担保を失わないかぎり、どこかで天使は飛びつづける。しかし、もしも本当に、すべてが既知で満たされた人間が、仮に存在できるとすれば、はじめから彼は人間としての資格さえ失っているはずではないか。

 醜く年老いた天使は、人間が人間でいられるために、今日もその大きな翼で羽ばたきつづけてくれている。


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村上ワールドのリアリズム──村上春樹『東京奇譚集』 

東京奇譚集 (新潮文庫)東京奇譚集 (新潮文庫)
(2007/11)
村上 春樹

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自我と偶然の共犯関係

 あれだけ多くの読者を獲得している作者の作品である以上、今さら説明じみた解説など不要だろう。

 本書には、五つの短編が収録されているが、それぞれに共通しているのは、いずれも登場人物が、何かを喪失するという点である。『偶然の旅人』では姉の乳房、『ハナレイ・ベイ』では息子、『どこであれそれが見つかりそうな場所で』では依頼者の夫、『日々移動する腎臓のかたちをした石』では恋人、『品川猿』では名札といった具合だ。その喪失がストーリーの軸となり、不思議な偶然や奇妙な事件をきっかけに、それぞれの過去にまつわる「受容」の物語が進行していくことになる。

 だが、読者が読了後に抱く印象は、むしろその逆である。どれも不思議な事件のようでありながら、どこか起こるべくして起きた必然的な出来事といった印象を受けるのである。

 タイトルの「奇譚」という文句からもわかるとおり、それぞれの物語は、一見したところ、偶然に起きた不思議な出来事ばかりに見える。しかし、実のところ、それらは登場人物がみずから求めなければ、決して起こりえなかった出来事であり、その喪失なしにこれらの受容の物語は成立しないということが、しだいに読者に明らかになってくる仕かけになっているのだ。

これは最初の短編『偶然の旅人』の作中の言葉からも明らかである。

例えば、この物語に登場するゲイのピアノ調律師によれば、「きっかけが何よりも大事」であるという。この登場人物は、自分の身に起きた偶然の出来事を踏まえて、それが単純な結果論ではなく、いかに起こるべくして起きた出来事なのかをはっきりと自覚している。

 なぜなら、意識的か無意識的かを問わず、そのきっかけを求める姿勢がそれぞれの登場人物にそなわったとき、初めてきっかけがきっかけとなるからである。そして、きっかけを求める姿勢それ自体が、きっかけの生みの親の役割を果たしていると同時に、結果として起きたそれぞれの不思議な出来事が、そのようなきっかけを求めていたのだという隠れた意識を、初めて登場人物に自覚させる役割を果たしているからである。要するに、その偶然には必然性があるということである。(*1)

 だが、「偶然に必然性がある」とは、具体的にはどういうことか。

『ねじまき鳥クロニクル』が書かれた当時、作者は河合隼雄との対談において、物語に対する自分の考えを率直に述べている。彼は物語の役割について、「エゴと環境ではなく、その両者の関係をそのまま意識の下部方向に引き下ろし、別の形でシミュレートすること」であると語っている。(*2)

春樹
村上春樹

 ここで「エゴと環境」というのは、夏目漱石の時代における自我の葛藤、すなわち近代小説のことを指している。漱石の時代に書かれた小説には、おもに自我と環境の葛藤という近代的テーマが中心にあった。環境とは日常における現実のことであり、近代知識人は西欧的な自我の問題を考えるにあたって、その環境との関係を非常に意識していたわけである。現実世界で実際に発生するエゴと環境との葛藤を描くことは、その当時においては、とても新鮮なリアリティがあったからだ。

 むろん、漱石が今でも多くの読者を獲得している事実からもわかるように、自我の問題は現代にも通ずる普遍的なテーマの要素である。本書に描かれた五編の物語も、その中心となるテーマにおいて、明らかに「自我とコンプレックスとの格闘」という側面を持っている。(*3)

 しかし、ここで作者は、現代という特殊な時代においては、それだけでは間に合わないことを指摘している。

 状況の急激な拡大にともない、環境問題や世界規模での深刻な不況、周辺アジア地域における国家間の対立やテロリズム、あるいは近年でいえば、年金問題や出会い系サイトによる犯罪、ネット依存症や引きこもりなど、少し思い浮かべてみただけでも、近代とくらべて問題があまりにふくれあがり、情報と選択肢が過剰にあふれたおかげで、葛藤そのものが多様化してしまい、そういった日常レベルの明確な意識の論理では、物語がうまく語れなくなってしまったと考えられるからだ。読者がリアリティを感じる基準、すなわちリアリズムの尺度が、時代によってまるで異なっているわけである。

 いささか図式的にいえば、近代小説が日常生活に直結するレベルの明確な意識にリアリティの根拠を求め、そのために物語において整合性を重視していたのに対し、村上作品は日常レベルの論理では意識できない、より深いレベルの意識に現代のリアリティの根拠を求めており、そのために物語において意識的な整合性をはっきりと拒絶し、偶然性を重視している。

 作者がこのような逆転を意図的に起こしたのは、近代小説のように説明不能な偶然性を軽んじ、説明可能な日常レベルの論理に縛られているかぎり、現代という特殊な時代を物語ることはできないということをはっきりと認識しているためである。

 作者はリアリズムと自作の関係について断言している。

僕の書く小説というのはリアリズムじゃないものが多い。ただ、そのほうが僕にとってはリアルなわけです。(*2)


 結局のところ、日常レベルの論理を拒絶した物語を支える別の論理とは、偶然性にほかならない。しかし、くりかえすまでもなく、その説明不可能な出来事に必然性がなければ、描かれた世界がリアリティを保つことはできない。

 要するに、リアリズムには説得力が必要なのであり、逆にいえば、いかに村上作品のような突拍子のない世界であっても、その突拍子のない部分に必然性が与えられさえすれば、《現実》を描くための手段を限定する必要などまったくないわけである。

 例えば、『品川猿』に出てくるみずきという女性は、自宅の押し入れに保管していたはずの学生時代の名札を、知らないうちに猿に奪われてしまう。だが、いかにも現実にはありえないように思われる出来事にもかかわらず、この物語に接した読者は、描かれた出来事に対して説得力を受ける。つまるところ、小説とは「現実認識における一種の仮説」なのだ。

 ここで、偶然というものを示す格好のエピソードがある。

 実際に、知人の女性の身に起きた話だが、この知人によれば、時計に目をやるとき、必ずといっていいほど、「4時44分」を指しているのだという。ふと気になって見たとき、誰かに時間を訊かれたとき、夜中に目を覚ましたとき、きまってこの時間を指している。その不吉な偶然の多さに脅えているのだという。

 むろん、これはおかしな話だ。なぜなら、彼女が時計に目をやる機会は、他にも幾度となく存在しているはずだからだ。種明かしをしてしまえば、彼女がそのことを忘れているだけのことである。

 だが、この錯覚には根拠がある。つまり、「4時44分」という時刻が不吉なものであるという意識が、あらかじめ彼女にはそなわっているのだが、その意識が一種の偏見に基づくものであるという自覚は持っておらず、そのため、「4時44分」という時刻を見たときだけ、その強い印象が蓄積されつづけ、それ以外に見た時間のほうは記憶に残らなかったのである。彼女の意識にとって、「4時44分」という時刻だけが問題だったのであり、このように自我という主観は、しばしば錯覚に基づいた判断を犯す癖がある。

 このエピソードからもわかるように、たとえ客観的に見れば必然的な過程があったとしても、自我という主観からすれば、まったくの偶然に見えるという現象が起こる。

 だが、これは当たり前のことのように見えて、そう単純な問題ではない。どんな人間であろうと、自我という主観的な視点から離れることなど不可能だからだ。

 したがって、物語の登場人物が感じている偶然性の不思議さは、ある一面から見れば、その人物の主観によって生まれたということになる。もしも登場人物が、それぞれの不思議な出来事を、特に気にとめることもなくやり過ごしていたとしたら、その物語は成立しなくなるだろう。

 重要なのは、それぞれの物語において、登場人物の抱える自我の問題が、不思議な偶然を必然的に導いているということである。そして、これらの奇譚にそのような必然性が保たれているのは、日常レベルの論理では意識できない現代人の自我の問題を、作者が仮説的に別の形に置きかえてとらえようと格闘しているからにほかならない。

 これら五つの短編の登場人物が抱える自我の問題は、「ニワトリと卵」のように、それぞれの奇跡の子供であり、同時に親でもある。この「自我と偶然の共犯関係」なしに、これらの物語は成立しないのである。


フィクションとリアリズム

 これらの物語は、それぞれ独立した短編として成り立っているが、本書のタイトルからもわかるように、同時に連作ものであることを示しており、テーマと構成に対する作者のこだわりがうかがえる。カズオ・イシグロの短編集『夜想曲集』は、明らかに本書の影響を受けている。

 さらに最初の物語の冒頭のくだりでは、わざわざ語り手としての顔を出してまで、これらの物語がどういった経緯で書かれたものであるかについて、あらかじめ断っている。正確には、最初の短編における前口上にすぎないが、本書全編に共通したものでもあるので、これらの奇譚をどのようにとらえてほしいかという、作者からのお願いとしてとらえるのが妥当だろう。

僕=村上はこの文章の筆者である。(中略)どうして僕がここに顔を出したかというと、過去に僕の身に起こったいくつかの「不思議な出来事」について、じかに語っておいた方がいいだろうと思ったからだ。(中略)どうやら小説家だからというだけで、僕が口にする(書き記す)話はみんな多かれ少なかれ「作り話」であると見なされてしまうらしい。『偶然の旅人』


 要するに、作者はここで、「わたしが小説家だからといって、これらの物語は決して嘘ではありませんよ」と、もっともらしい忠告を与えてくれているわけだが、当然ながら、これらの言葉をそっくり鵜呑みにすることはできない。それが嘘を隠すための詐欺師の手口に見えるからではなく、小説という形式が選択されているという事実が、あらかじめ読者の信頼を奪っているからだ。ミラン・クンデラばりに自作の長編タイトルまで引用し、作者の経歴や、実際に作者の身に起こった出来事までまじえているから、なおさら始末が悪い。断るまでもなく、これはフィクションである。

 しかし、それがフィクションだからといって、その《嘘》に意味がないわけではないことは、あらためて指摘するまでもないだろう。作者はここで、いわばフィクションとノンフィクションの垣根が問題なのではなく、むしろそのような垣根を考慮すること自体が、読者の《現実》を狭くするということを危惧しているように見える。

 そもそも、言語という媒体によって、事実をありのままに書きつづることは不可能である。言語化という操作を介した時点で、事実そのものとの乖離は、その前提として避けられないということを、作者は前もって自覚していなければならない。重要なのは、事実そのものを描くことではなく、物語という一種の仮説を通して、時代を代弁しうる《現実》を創造することである。しばしば問題となる歴史の改竄は、言語の生来的皮肉なのだ。(*4)

 そうである以上、その記述がフィクションであるか、事実であるかといった問題は、読者にとってほとんど関係のないことである。作者の前口上のねらいは、いわば物語という世界が生まれてくる前提の背景を復習してもらうことで、このような村上作品の世界観の必然性を、もう一度読者におさらいしてもらおうとしているようにも見える。

 ガルシア=マルケスの有名な発言に、このようなものがある。

たとえば、象が空を飛んでいるといっても、ひとは信じてくれないだろう。しかし、四千二百五十七頭の象が空を飛んでいるといえば、信じてもらえるかもしれない。


 これはジャーナリズムの世界で実際に活躍した経歴を持つ、ガルシア=マルケスならではの発言である。この発言の意味は重い。なぜなら、読者がノンフィクションというものを信用する基準が、それほど確かなものではないことをあらわしているからである。

 つまり、ノンフィクションがノンフィクションとして認められている根拠というのは、実は具体的な数値や固有名詞を並べることによって、かろうじてリアリティをつなぎとめているだけのことなのかもしれないわけである。ノンフィクションと呼ばれる書物の内容が、仮にまったくのでたらめだったとしても、いくつかの具体的な詳述によって、あらゆる人間がそれは正しいと認めてしまえば、その嘘っぱちの《本当らしさ》は、《本当そのもの》として認識されることになる。

 逆にいえば、まったくフィクションをまじえず、客観的な事実だけを記した内容の書物を、小説と称して発表した場合、いくらその内容がすさまじいリアリティを持っていたところで、ノンフィクションと認められることはないだろう。このように事実と虚構の関係というのは、実にあいまいな垣根によって支えられているだけのものにすぎない。

 この短編集のタイトルには、村上作品にはめずらしく、わざわざ「東京」という日本の地名が入っている。村上作品における固有名詞の多用は有名だが、初期の作品とくらべてもわかるように、明らかに近年の作者は、日本という環境を、より意識的にとらえている。例えば『アフターダーク』では、「すかいらーく」や「デニーズ」といったチープな固有名詞まで出てくる。むろん、こういった固有名詞の使用は、百年後の読者からすれば、注釈の必要な要素にもなりうることである。

 だが、作者自身としては、それほど意識していないことなのかもしれない。物語の舞台が現代の東京であることを示す具体性を、こうした固有名詞の多用によって援用しているだけのことだとすれば、まさしく作者としてのリアリズムの世界を、一貫して物語っていることになるだろう。

 すなわち、リアリストの目が、つねに現代に向けられているだけのことである。



(*1)マルティン・ブーバー『我と汝』(岩波文庫)。ブーバーの言葉を借りれば、これらの着想は、《われーそれ》関係から《われーなんじ》関係への飛躍といったものに近いかもしれない。むろん、この二つの関係における《われ》は同じものではなく、それまで《われーそれ》関係における《われ》にすぎなかった人物が、きっかけを求めることで《われ-なんじ》関係における《われ》に飛躍したと考えた場合、一見偶然に見えた出来事は、その飛躍にともなう同時的な現象と解釈できる。
(*2)河合隼雄『こころの声を聴く』(新潮文庫)。
(*3)河合隼雄『コンプレックス』(岩波新書)。
(*4)野家啓一『物語の哲学』(岩波現代文庫)。

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